「手は汚れないのに、なぜか疲れる」。そんな毎日に息継ぎをしたくて。
PC1台で生きられる時代に、クワを握ってみたんだ
PC1台あれば、
どこでも仕事ができる時代です。
キーボードを叩いていれば、手は汚れません。
画面の中の仕事は、スマートで、
やった分だけ形になって積み上がっていく。
それなのに僕は今、重たい長靴を履いて、
ぬかるんだ棚田に立っています。
田んぼに水を引き、
土を細かく砕いて平らにならす
「代掻き(しろかき)」の季節です。
歩みをひとつ進めるたびに、
作業着の裾に泥がはねます。
正直、とても面倒な作業です。
「手間は、なるべく減らした方がいい。」
都会的な価値観の中で、
ずっとそう思っていました。
でも、泥というのは不思議なもので。
丁寧に、磨くようにならしていくと、
水面が鏡のように空を映して、
ハッと光る瞬間があります。
そしてその泥を磨くには、
自分自身も泥の中に入らなければいけない。
泥だらけになりながら土をならしていると、
自分の中にある「泥めいた部分」、
割り切れない思いや、
効率化できない感情の中にも、
なぜか光を見出せるような気がしてきます。
泥は、思い通りになりません。
PCのように「戻る」ボタンも効かない。
「保存」ももちろんありません。
今日きれいに整えた畦も、
ならした泥も、
来年の今頃にはまたゼロに戻ります。
何一つ積み上がらない、果てしない繰り返し。
でも、
その積み上がらない営みの中で、
ただ目の前の泥と向き合い、
自分ごと泥に浸かっている時間にこそ、
僕がずっと探していた「余白」がありました。
数日前、子どもに聞かれました。
「なんで、田んぼやってるの?」
うまく答えられなかった。
でも、
泥だらけの長靴を水で洗い流しながら、
ふと直感的に思ったんです。
お米をつくることは、
「未来への約束」なんじゃないかって。
僕たちは、
お米を売るために作っているわけじゃありません。
自分たちでいただくために、作っています。
夏の足音が近づく季節に
泥まみれ汗まみれになって苗を植えることは、
「少なくとも実りの秋までは、ここで季節と向き合って、育て上げます」という、
静かな宣言のような気がします。
そして無事に実ったお米を、湯気とともに食卓で囲むとき。
「これを食べている間は、元気でいようね。」
そんな、自分たちへの約束になる。
効率化して生み出した時間ではなくて、泥に汚れ、身体を使っている時間が、僕の心を静かに整えてくれます。
思い通りにならない泥の手触りと、磨かれて光る水面が、「今、ここで生きている」という現在地と、秋という未来を、そっと繋いでくれているのかもしれません。
今日もしっかりと汚れた長靴を脱いで。
ふっと息を吐き出し、僕はまた、PCの前に座ります。
これは、せわしなく生きてきた自分が、
“暮らしを取り戻そうとしている記録”です。
忙しさで感覚が鈍ってしまった人へ。
“味わう暮らし”を一緒に取り戻す仲間になっていただけたら嬉しいです。












未来への約束、その言葉すごくいいですね、お子様にもとてもわかりやすい言葉かと思うし、どこかご自分の覚悟の証しみたいにも聞こえます。
毎回、心を打たれる話、次も楽しみにしています♪