教えることをやめたら、物語が生まれた
半年ほどかけて書いた原稿を
僕は出版直前で手放しました。
なかなか思い切ったことをします。
今になって振り返ると、もう少し穏やかな方法はなかったのかと、自分でも思います。
でも、どうしても違うと思ったんです。
「僕が書きたいのは、これじゃない」と。
今朝、里山には久しぶりに、ザーッと雨が降りました。
日照りが続いていたので、屋根を打つ雨音を聞きながら、少しほっとしました。
そんな朝に、僕はこの一年、書き続けてきた物語のことを考えていました。
今から一年半ほど前、僕はある出版スクールに入りました。
本の書き方や届け方を学んで、
どうしても読んでもらいたい人がいたからです。
その相手は、一緒に暮らしている家族でした。
もっと言えば、三人の子どもたちです。
うちの子どもたちは、三人とも不登校を経験しています。
今は、それぞれのやり方で学校に通えるようになりました。
けれど、それまでには、外へ出られず、家の中で長い時間を過ごした日々がありました。
同じ部屋で、同じような一日を繰り返す。
そんな時間が長くなるほど、
「自分には何ができるんだろう」と、
自分の可能性に蓋をしてしまうことがあります。
だから僕は、子どもたちに伝えたかったんです。
君たちには、いろいろな可能性がある。
君にしかない力が、ちゃんとある。
もう少し勇気を持っていいんだよ、と。
ただ、一緒に暮らしていると、距離が近すぎるんですよね。
親がまっすぐ「君には才能がある」と伝えたところで、「そうか。よし、やってみるよ」とは、なかなかなりません。
もしそれで全部うまくいくなら、親という仕事は、ずいぶん簡単だったはずです。
それでも最初の僕は、
子どもたちへのメッセージを
一冊の本にしようとしていました。
勇気を持つための考え方や、
自分の可能性を信じる方法を書く。
いわば、人生の指南書のような本です。
でも、書き進めるうちに、
ひとつの違和感が大きくなっていきました。
たとえば、
「早寝早起きをしましょう」
これは、たぶん正しいことです。
僕も東京で十一年間、小学校の教員をしていた頃、子どもたちに何度も伝えてきました。
夏休みには、生活のリズムを整えましょう、と。
けれど、その言葉だけで早寝早起きができるようになった子を、僕はほとんど見たことがありません。
何を隠そう、大人だってムズい!
正しいことを教えれば、人は変わる。
そんなに単純なことではないんですよね。
そもそも、子どもたちは誰かの望む形に「変わる」必要なんてないのかもしれません。
自分の中に、すでにある力に気づく。
必要なのは、
そのための余白なのではないかと思ったんです。
僕はそれを、
「気づきしろ」と呼びたくなりました。
のりしろや、のびしろのシロ。
自分で感じ、自分で考え、自分で埋めていける場所です。
指南書を書こうとしていた僕は、その余白にまで、自分の答えを書き込もうとしていました。
だから、半年ほど書き続けてきた原稿を、出版直前ですべて手放しました。
そして代わりに選んだのが、物語でした。
物語には、たったひとつの答えが書かれているわけではありません。
読む人は、その世界に入り、登場人物に自分を重ね、ときには応援しながら、自分の中にある何かを見つけていきます。
誰かに教えられた答えではなく、自分で感じ取ったものとして。
だから僕は、読みしろのある物語を書こうと思いました。
考えしろがあり、受け取りしろがあり、読む人が自分の答えを見つけられる物語です。
子どもたちへ届けたくて書き始めたその物語は、一年かけて、少しずつ形になってきました。
そして、書き続けるうちに思うようになったんです。
これは、子どもたちだけではなく、あなたにも読んでもらいたい物語なのかもしれない、と。
僕がこの一年で書いてきたものは、小説という完成品ではなく、一人ひとりが自分の答えを見つけるための「しろ」だったのかもしれません。
物語は、書き手だけでは完成しません。
読む人が自分の記憶や思いを重ねたとき、初めて、その人の中の物語になるからです。
だから僕は、この物語を、あなたと一緒に最後まで育てていけたらと思っています。
この物語を最後まで育てていくために、
Substackに登録してくださっている皆さんへ、
今度ひとつお願いがあります。
そのときは、力を貸していただけらありがたいです🙏
あなたの中にも、誰かに教えられるより前から、ずっとあった力はありますか。
これは、せわしなく生きてきた自分が、
“暮らしを取り戻そうとしている記録”です。
“味わう暮らし”を一緒に取り戻す仲間になっていただけたら嬉しいです。


