ぼくの予定を、雨は平気でくるわせる
話がちがう。自然はやさしいって言ってたじゃんか
「自然のなかに行くと、なんかホッとするよね」
そういう言葉を、よく耳にします。都会で暮らしていた頃の僕も、本当にそう思っていました。
ビルばかりの街のなかで、
公園の緑を見たり、
木陰に入ったりすると、
心がじんわり癒される。
自然って優しくて、
ありがたいなぁって感じていたんです。
5年前、
長年つづけた小学校の先生をやめました。
高知県の山のなかで暮らすようになり、
自分で田んぼを始めるようになりました。
そして、
ぼくは自然の「別の一面」に気がつきました。
それは、
やさしいだけじゃない、
もっと激しくて、
ぼくたちの都合なんて
ちっとも聞いてくれない姿です。
ここ数日、
まとまった雨が降ったあとの、
棚田の景色です。
山に囲まれて、
水鏡みたいに空を映していて、
植えたばかりの苗が綺麗に並んでいます。
一見すると、
すごく静かで、
平和で、美しい景色に見えますよね。
でも、
この景色の裏側では、
人間と自然のちょっとした「戦い」が
始まっているんです。
雨って。
僕が「大切に育てたい」と思っている稲にも。
正式には「雑草」なんて名前の草はないけれど、僕たちが勝手にそう呼んでいる草にも。
それはもう、
びっくりするくらい平等に降り注ぎます。
すると、
「お願いだから、ここには生えないで!」
って、あぜ道にも、
草が「待ってました!」とばかりに、
一斉に元気よく生えてくるんです。
時には、
山の木の枝が上からびよーんと伸びてきて、
田んぼのスペースに
入り込んでくることもあります。
草刈り鎌を持った僕と、
空から降ってくる枝との「空中戦」です。
本当に、僕たちの思い通りにはなりません。
勝手にぼくの境界線を越えてくるし。
放っておくと大変なことになるから、
草刈りにたくさんの時間を奪われるし。
時には、
土砂崩れみたいに、
ものすごく怖くて厳しい姿も見せる。
全然、思い通りにならない。
都会の公園で感じていたような、
都合のいい「癒し」とは、
ぜんぜん違います。
正直に言うと、
移住してきたばかりの頃は、
「面倒だなあ」と思うことばかりでした。
毎日まいにち草は伸びるし、
虫は出るし、
お天気には振り回されるし。
でも、
その面倒くささとずーっと付き合っているうちに、
「あれ?」って、
ふと思う瞬間があったんです。
自然っていうのは、
そもそも人間の思い通りにならないものなんだな、って。
「天気がいいから、運動会ができた! ピクニックに行けた!」
って喜ぶ日もあれば、
「雨が降っちゃって、最悪だなあ」
ってがっかりする日もある。
でも、
その雨を、
ぼくのように農業をやる人は
「恵みの雨だ!」って大喜びしていたりする。
自然はただ、
雨を降らせているだけなのに、
人間の都合で勝手に一喜一憂しているんですよね。
じゃあ、
どうしてその
「思い通りにならない面倒なもの」が、
いつの間にか「面白い」に変わり、
僕の心を癒してくれるようになったのか。
いまの世の中は、
できるだけ「思い通りになる」ように作られています。
電車の時間もぴったりだし、
スマホのボタンを押せば、
見たい動画がすぐに見られる。
学校でも、
「予定通りに、目標に向かってがんばること」
が、求められますよね。
でも、
そうやって
「全部を思い通りにコントロールしよう」
とすること自体が、
僕たちの心を、
知らず知らずのうちにヘトヘトにさせているんじゃないでしょうか。
だからこそ、
自然のなかに行ったとき。
僕たちの都合なんて1ミリもお構いなしに、
気まぐれで、厳しくて、
でもただ全力で生きている草や木を見たとき。
「あぁ、僕がどんなに頑張っても、思い通りにならない世界があるんだな」
って気づかされます。
全部を自分の思い通りにしなくていい。
僕がコントロールしなくたって、
世界はちゃんと回っている。
そう思えた瞬間、
肩の力がふっと抜けて、
心が本当に自由になれる気がするんです。
人間に媚びない厳しさや面倒くささがあるからこそ、
僕たちは救われる。
泥まみれのあぜ道で、またすぐ伸びてくる草を見つめながら、僕はそんなことを考えています。
これは、せわしなく生きてきた自分が、
“暮らしを取り戻そうとしている記録”です。
忙しさで感覚が鈍ってしまった人へ。
“味わう暮らし”を一緒に取り戻す仲間になっていただけたら嬉しいです。















