車をくれる田舎の人
どうして僕に土地まで託してくれるのだろう?
あんたに来てもらえて
嬉しいよ
土砂降りの田んぼで、
おばあちゃんがそう言いました。
自慢話じゃないので、
どうかこの先もお付き合いいただけたら嬉しいです。
この言葉を聞くのは、初めてではありません。
もう、何度も言ってもらっています。
それでも、その日はいつもより深く、
ぼくの中に残りました。
もしかしたら、
おばあちゃんが喜んでくれているのは、
田んぼの景色だけではないのかもしれない。
そんなことを、初めて思ったからです。
そしてこれは、ぼくだけに起きている特別な話でもないのだと思います。
田舎のあちこちで今、
「誰かに来てほしい」
「この土地を使ってほしい」
「ここを忘れないでほしい」
という声が、
言葉になったり、
ならなかったりしながら存在しています。
車を譲る人がいる。
田んぼを任せる人がいる。
家の横の畑を、
「好きに使っていいよ」
と差し出す人がいる。
それは、物をあげたいからだけではありません。
ただ親切にしたいんだっていうのも
ちょっと違う気がします。
誰かがここへ来てくれること。
人の気配が残ること。
そのこと自体を、喜んでいるのかもしれません。
土砂降りの田んぼで
その日は、朝から雨が降り続いていました。
山に降った雨は、
やがて湧き水となって、
ぼくの田んぼへ流れ込んできます。
いつもなら、
水が足りない。
どうやって水を引こう。
そんなことばかり考えているのに。
雨が降りすぎると、
今度は水を逃がさなくてはいけません。
田んぼから水があふれないようにする。
流されそうなホースや資材を引き上げる。
土砂降りの中、びしょ濡れになりながら作業をしていました。
雨というのは、
こちらの都合なんてまったく考えてくれません。
まあ、そりゃそうなんですけど。
そんなことを思いながら田んぼを見ていると、
傘を差したおばあちゃんが歩いてきました。
田んぼの近くで暮らしている、
地域のおばあちゃんです。
この雨の中でも、
田んぼの様子が気になったのだと思います。
少し立ち話をしました。
そこで、おばあちゃんが言ったのです。
「あんたに来てもらえて、本当に嬉しいよ」
「あんたがここをやってくれなかったら、草ぼうぼうになっていた」
「この景色も、もうなかった」
ぼくはこれまで、その言葉を聞くたびに、
田んぼの景色を残せてよかったな。
そう思っていました。
田んぼが荒れずに残ること。
草ぼうぼうにならず、稲が育っていること。
山の中に、昔からの景色が残っていること。
おばあちゃんは、きっとその景色を喜んでくれているのだと思っていました。
でも、その日は少し違うことを感じました。
おばあちゃんが喜んでくれているのは、
景色だけではないのかもしれない。
ここに誰かが通っていること。
誰かが草を刈っていること。
誰かが水を見ていること。
誰かが、この土地に手を入れ続けていること。
そのこと自体が、おばあちゃんにとっての安心になっているのかもしれません。
この田んぼの周りには、いくつかの家があります。
山の中で、静かに暮らしている人たちがいます。
もし、周りの田んぼも畑も荒れて。
誰も来なくなって。
人の気配がなくなったら。
そこに暮らすことは、どれほど心細いだろうと思います。
不便さには、案外耐えられるのかもしれません。
買い物へ行くのに時間がかかる。
電車がない。
近くに店がない。
少しくらいなら、そうした不便さにも慣れていける。
でも、
この世界に
自分しかいないように感じること。
誰からも
気にかけられていないように思うこと。
自分だけが
取り残されているように感じること。
それには、
なかなか耐えられないのではないかと思います。
田舎では、ゴールデンウィークや夏休みになると、町のスーパーが急に賑やかになります。
普段は見ないほど、大きなオードブルが並びます。
お寿司もたくさん並びます。
山で暮らすおじいちゃんやおばあちゃんのもとへ、子どもや孫たちが帰ってくるからです。
おじいちゃんやおばあちゃんは、家族が来る日に合わせて買い物をします。
孫が喜ぶだろうか。
みんなで食べられるだろうか。
そう考えながら、オードブルやお寿司を車へ積み込んで、山の中へ帰っていきます。
その姿を見るたびに、
なんだか胸がじんわりします。
待っている人がいる。
帰ってくる人がいる。
一緒に食べる時間を楽しみにしている人がいる。
人が来るということは、それだけで誰かの暮らしを明るくするのだと思います
ぼくが高知へ来てから、不思議なくらい、たくさんのものを託してもらいました。
車を譲ってもらったことがあります。
田んぼを任せてもらいました。
家の前にある土地を、
「畑でも何でも、好きに使っていいよ」
と言ってもらったこともあります。
でも、これは、ぼくだけに起きている話ではありません。
田舎では今、
耕す人がいなくなった畑や、
草を刈る人がいなくなった田んぼや、
住む人がいなくなった家が、
少しずつ増えています。
そして、その場所を大切にしてきた人たちは、
ただ手放したいのではなく、
できることなら、
誰かに引き継いでほしいと思っているのです。
自分たちが守ってきたものを、
もう一度、
誰かの暮らしの中で生かしてほしい。
そんな願いがあるのだと思います。
土地は、
簡単につくり直せるものではありません。
先祖から受け継がれ。
家族が暮らし。
草を刈り。
土を耕し。
何年も、何十年も手を入れてきた場所です。
その土地を任せるということは、その人にとっての宝物を渡すようなことなのかもしれません。
ぼくが受け取った車も、田んぼも、土地も。
きっと、ぼく個人へのご褒美ではありません。
「この場所を、次へつないでほしい」
という、小さなバトンだったのだと思います。
どうして、そこまでしてくれるのだろう
ぼくは、もともと東京から来た人間です。
最初から田舎暮らしの知恵を
持っていたわけではありません。
土地のことを何でも知っているわけでもない。
失敗もします。
草を刈る時期を間違えることもある。
水の量を読み違えることもある。
それでも、
「あんたに託すよ」
と言ってもらえる。
どうして、そこまでしてくれるんだろう。
以前のぼくなら、
よく分からなかったと思います。
でも、今なら少しだけ分かる気がします。
「あんたたちが来てくれて、よかった」
その言葉の中には、
この場所に、まだ人がいる。
この土地を、気にかけてくれる人がいる。
自分たちは、ひとりぼっちではない。
そんな思いも含まれているのかもしれません。
ぼくは田んぼを守っているつもりでした。
草を刈り。
水を見て。
稲を育て。
景色を残しているつもりでした。
でも、おばあちゃんの言葉を聞いて。
ぼくが守っていたものは、
景色だけではなかったのかもしれない
と思いました。
田んぼに人の手が入っていること。
今日も誰かが来ていること。
ここが、まだ忘れられていないこと。
そんな小さな安心を、
ぼくは田んぼと一緒に
育てていたのかもしれません。
そして、
それは田舎の至るところで起きていることなのです。
誰かが畑を使い始める。
誰かが空き家に住み始める。
誰かが草を刈りに来る。
誰かが、ただ顔を見せる。
それだけで、
まだここに人がいる。
まだこの場所は終わっていない。
そう思える人がいるのかもしれません。
「あんたに来てもらえて、嬉しいよ」
土砂降りの田んぼで聞いたその言葉は、家に帰ってからも、ぼくの中に残っています。
田んぼを任せてもらったこと。
土地を使わせてもらっていること。
ここで暮らさせてもらっていること。
そのひとつひとつを、
当たり前にしないでいたいと思います。
ぼくがここへ来たことで、
少し安心してくれる人がいる。
そしてきっと、別の土地でも。
誰かが来たことで、ほっとしている人がいる。
そう思うと。
田んぼへ通う足取りが、
昨日までとは少し違って感じられます。
あなたの暮らす場所にも、
「来てくれてよかった」
と思える人はいますか。
あるいは、あなた自身が来ることを、ひそかに待っている人はいますか。
よかったら、コメントで教えてください。
これは、せわしなく生きてきた自分が、
“暮らしを取り戻そうとしている記録”です。
“味わう暮らし”を一緒に取り戻す仲間になっていただけたら嬉しいです。
次の記事も気になるなぁって思ってくださった方、
ぜひ無料で受け取ってください。
また、お会いしましょう!














「あんたに来てもらえて、嬉しいよ」
私の住んでいる村は、戸数18、人口約30人のいわゆる限界集落です。18軒のうちの4軒は最近5年以内によそから来た人たちの家族です。私を含めた旧い住民の正直な気持ちは、「あなたたちが来てくれて本当に良かった」というものです。
これが20年前、30年前だったら、受入側の感情もずいぶんと異なったであろうと思います。「ふん、都会の人が遊び半分で農業やってもダメに決まっている。仕来りを守らずに好き勝手なことをされても困るだけだ」みたいな。
所によって程度の差はあると思いますが、現在では、移住者を歓迎する村の方が圧倒的に多くなっていると思います。逆に言うと、中山間集落の存続がそれほど大きな危機に瀕しているという事でもあるのですが。
素敵な風景が沢山出て癒されますー!